芦屋市の六麓荘町(ろくろくそうちょう)は、「日本一の高級住宅街」と呼ばれる街です。では、この街はいつ、誰が、どんな考えでつくったのでしょうか。
このシリーズでは、これまで六麓荘の「豪邸条例」の中身と、街にまつわる噂を検証してきました。今回は、その土台にある街の歴史を、芦屋市の資料を中心にたどります。調べてみると、よく知られた話と市の資料とで、少しずつ食い違う点も見つかりました。
「六麓荘」という名前の由来
六麓荘は「ろくろくそう」と読みます。名前の意味は「六甲山の麓(ふもと)の別荘地」です。
今でこそ住宅街ですが、名前のとおり、はじまりは大阪の財界人に向けた別荘地でした。
はじまりは国有林の払い下げ
六麓荘の開発が始まったのは1928年(昭和3年)です。もとは国有林だった土地の払い下げを受け、「株式会社六麓荘」が開発しました。中心になったのは大阪の実業家・内藤為三郎らで、「東洋一の立派な別荘地にしたい」という構想があったと伝えられています。
手本にしたのは香港島です。芦屋市の地区計画にも、六麓荘が昭和3年から香港島の高級住宅地を手本に開発されたと書かれています。山の斜面に広い区画と曲がりくねった道を配する街並みは、同じく斜面にひらけた香港島の住宅地と重なります。
「東洋一の別荘地」か「東洋一の健康地」か
ここで一つ、食い違いが見つかりました。
報道では、六麓荘は「東洋一の別荘地」を掲げてつくられたと紹介されることがほとんどです。ところが芦屋市の郷土資料では、株式会社六麓荘が「東洋一の健康地」をキーワードに分譲したと書かれています。
当時の芦屋周辺では、私鉄会社が沿線の住宅地を「風光明媚」「健康地」といった言葉で売り出していました。空気と水がきれいで、山と海が近いことが、都会に住む人へのいちばんの売り文句だったのです。開発者の構想としては「別荘地」、売り出しの言葉としては「健康地」だったと読むのが自然でしょう。
年代にも少し幅があります。開発の開始は1928年ですが、市の資料では、実際に土地が造成・分譲されたのは1929年から1931年(昭和4〜6年)とされています。
当時としては異例の最新インフラ
六麓荘がすごいのは、100年近く前の時点で、今の高級住宅街と同じ水準の設備を整えていたことです。市の郷土資料と、このまちアーカイブスによると、主な特徴は次のとおりです。
| 特徴 | 内容 |
|---|---|
| 道路 | 地形を生かした幅の広い曲線の道路を、全面舗装 |
| 区画 | 1区画300〜400坪以上 |
| 上下水道・都市ガス | 開発当初から整備 |
| 電線 | 景観のために地下に埋設 |
| 交通 | 独自のバス「六麓荘乗合自動車」を運行 |
| レジャー | スケート場やテニスコートも設置 |
なかでも、電線を地下に埋めたのは画期的な試みでした。ただし、現在の六麓荘には電柱が残る区間もあります。詳しくは前回の噂の検証記事で紹介しています(※噂の検証記事へのリンク)。
街全体が一つの日本庭園
市の郷土資料には、もう一つ興味深い記述があります。六麓荘は、住宅地全体で一つの日本庭園になるよう設計されていたというのです。
自然の地形をなるべく生かし、「どんどん川」などの小川を敷地から敷地へと引き込みました。川が道路を横切る11か所には、それぞれデザインの違う石橋が架けられています。これらの橋は阪神・淡路大震災などで傷みましたが、2003年に修復されました。
今の六麓荘の地区計画が緑化率や石積みの擁壁にまで細かいルールを設けているのは、この「街全体が庭園」という設計思想を受け継いでいるからだと考えると、すっきり理解できます。
高台の高級ホテルは、今の大学に
1939年(昭和14年)には、六麓荘の高台に高級ホテル「芦屋国際ホテル」が建てられました。戦後はGHQに接収され、1959年からは芦屋女子短期大学(現在の芦屋大学)の校舎として使われました。建物は阪神・淡路大震災の後に建て直され、現存していません。
住宅街の中に大学がある理由は、このホテルの歴史にさかのぼります。ちなみに2026年7月の地区計画の変更で高さ制限が見直されたのも、この大学がある地区でした。
戦後、区画は小さくなった
開発当初の邸宅は、土地面積が平均300〜350坪ほどありました。ところが戦後、富裕層に相続税の負担が重くのしかかり、1軒あたりの敷地は小さくなっていきました。
このままでは高級住宅街にふさわしくない狭い区割りになってしまう。こうした町内会の危機感が、独自の建築協定や、のちの地区計画・条例につながっていきます。
六麓荘の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1928年(昭和3年) | 国有林の払い下げを受け、株式会社六麓荘が開発を開始 |
| 1929〜1931年(昭和4〜6年) | 「東洋一の健康地」として造成・分譲 |
| 1939年(昭和14年) | 高台に芦屋国際ホテルが開業 |
| 戦後 | ホテルがGHQに接収される。相続税の影響で区画の細分化が進む |
| 1959年(昭和34年) | 旧ホテルが芦屋女子短期大学の校舎に |
| 2003年(平成15年) | 震災などで傷んだ石橋を修復 |
| 2006年(平成18年) | 六麓荘町地区地区計画を決定 |
| 2007年(平成19年) | いわゆる「豪邸条例」が施行 |
| 2018年(平成30年) | 町内会が市に無電柱化を要望 |
| 2026年(令和8年) | 地区計画を変更(大学のある地区の高さ制限など) |
2006年以降のルールについては、「豪邸条例」の解説記事で詳しく紹介しています(※豪邸条例記事へのリンク)。
まとめ
六麓荘は、偶然お金持ちが集まった街ではありません。国有林を切りひらき、香港を手本に、電線を地下に埋め、街全体を日本庭園として設計した、最初から「つくり込まれた街」でした。
そして100年近くたった今も、町内会の協定と市の地区計画によって、その設計思想が守られています。六麓荘の厳しいルールは、開発当初の理想を次の世代に引き継ぐための仕組みだと言えそうです。
参考資料
六麓荘って、芦屋市民でも「行ったことない」説あるけど実際どう?


